関連性があるかは分からないのだけど、「いいひと。」の実写化ドラマが頭によぎるのは
年代からして仕方ないのかもしれない。
詳細は以下Wikipediaの項目を参照ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%84%E3%81%84%E3%81%B2%E3%81%A8%E3%80%82#%E6%BC%AB%E7%94%BB%E9%80%A3%E8%BC%89%E7%B5%82%E4%BA%86%E3%81%A8%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E%E5%8C%96%E4%BD%9C%E5%93%81%E3%81%AE%E9%96%A2%E4%BF%82
個人的な解釈としての「何があったのか」
結論
脚本のやりたかったことは理解できたが、
結局アビ子@【推しの子】の
「うちの子達はこんな馬鹿じゃないんですけど」
に集約されると思われる出来でした。
https://pbs.twimg.com/media/GEz6jNBaUAAen1y?format=jpg&name=small
よりお借りしました(スミマセン。どうしても使いたかったので…)
※注意※
ここからは実写版と原作漫画14巻までのネタバレを含みます。
良かったと思う点
なんか最初に良かった点を書いておくと、悪い点の悪辣さが薄まると、どこかの誰かに聞いたので
あえて書いてみようと思ったりした。
実家のような安心感のある実家
ごじょー君の実家については(後にリンクで出すnoteでも書かれているけど)まさに
実家のような安心感。おじーちゃんのキャラメイクも原作からの乖離は少ないと思われ、
まあホントにココだけは非常に実家のような安心感をもって見られた、という感じ。
永瀬莉子さん(喜多川海夢役)と池田朱那さん(乾紗寿叶役)の演技
別に悪くなかった、というかこれも脚本通りに演じたのだろう、と思うとまあこうなっていることに
非常に安心というか、良かったという感じがしてならない。
特に実写化なので、実際に登場させられるネームドに限りがあるのは間違いないので、
こういう役者さんがきっちり演技が出来ているのはとても良いと思ったりしている。
ごじょー君やった野村康太さんについては、個人的には
- 脚本でどうしても評価できないところに落ち込んでいる(後述)
- いくらなんでも線が細すぎる。もう少し肉付きをですね…
という思いがあったりするので、純粋に評価できなかったりしている。
どうしようもないギャップ
(おそらく)脚本の人がやりたかったこと
- ごじょー君の「覚醒」をドラマ全体のクライマックスにお出ししたかった
これ正直、1クールのドラマとしてのクライマックスをどこに持っていくか、という話で鑑みると
「分からなくはない」と思えてしまうのが絶妙に腹立たしいんですよ。
だって、なんと言っても、
我々が知っていること
は、ごじょー君の「覚醒」は採寸(ドラマなら2話)のときが初出になるワケで、まずそこを潰してしまった、ということが原作愛好の方々からは受け入れられないところが強烈に出るワケです。
たぶんこの人のnoteが最高にそれを表現してくれていると思ったのでリンク。
https://note.com/kind_phlox918/n/n21e946ef7878
これ読んで、ドラマをちゃんと全部見た上で思った感想が、脚本の人がやりたかったことに繋がるワケです。ドラマなんだから全体としての最大の見せどころは分かりやすくしたい、という気持ちは正直理解できないことはない(とまでは許容しておこうと思う)。けども、採寸のときの覚醒と、クライマックスの覚醒は意味合いがまったく違うワケで、それを脚本の人が上手く言語化できなかった、
としか思えなかったりするワケなんですよ。誰か分かってくれないでしょうか?
で、どうしてこうなった、で考えると、
(おそらく)制作側が押さえたかった主人公
が「喜多川海夢」(永瀬莉子さん)なのに対して、
我々が認識している主人公
が「五条新菜」だった、というのが全てなのかな、と思うワケなんですよ。
本当に正直に誤解を恐れずに言ってしまうと、着せ恋という作品は
- 喜多川海夢がモブになってしまっても成立する作品
であり、
- 五条新菜の掘り下げが出来ないと破綻してしまう作品
であると思うのです。
正直、ジュジュ様関連のやり取りは所謂ハーレムルートへのトライアルだった
(つまり、喜多川海夢をどれくらい主役として軸に据えるかの実験)だったと思えるワケで、
あそこで、「この作品は五条新菜を主軸として喜多川海夢を魅せる作品」という流れを
確立させた、と思っている(少なくとも私のような)原作原理主義からすると、
「うちの子達はこんな馬鹿じゃないんですけど」
に集約されていくような気がしてならないのです…
全話見て思った感想
順不同で、Xなども交えつつ。
衣装の問題
これ、投稿の後にコスプレイヤーさんが実際に来た衣装(伊織もえさん)が着てた衣装ということを
その当たりの事情に詳しい人に教えてもらえたので理解はできた。
https://bisquedoll-anime.com/1st/special/photo/#photo01
できた…のだけど、それでもドラマがアニメ化の余波に負けているのはどうなんだろ…とは
思ったりしている。
「姫野あまね」という存在そのもの
たぶん原作勢から見たら、絶許ポイントは実はここだったのではないか、と思えるキャラ。
彼のその後(実写放送後の漫画での行動)が、あまりにキャラ解釈が違いすぎることから、
「あ、これ福田先生に絶対キャラ設定聞いていないやつだな」
と思わせるムーブをかましてしまった逸材。
そりゃ、あの解釈で使いたいようにキャラ使っていたら、こういう結果になるよな…
と思えるキャラ利用でした。
いや、ほぼ180度キャラ設定間違えてるやんけ!!!!
とその後の原作展開を読んで思ったことは言うまでもないことです。ええ。
今思っていること
福田先生が急に完結させた理由が、「いいひと。」のそれと同じでなければ良いな、と
それだけをホントに心から思っているわけです。
だって、本当にそうだったら、この脚本の人一生許さないレベルまで落ちるじゃないですか。
「次回完結」って文字をYouTubeで見たときのあの絶望感、正直、本当に軽いトラウマなんですよ。
あ、世界が終わった、みたいな感じでしたよ。
もっと社会とか色んなものに翻弄されながらも乗り切っていく二人を見続けたかったんですよ。
まだスピンオフがあるから、世界自体は閉じてはいないものの、正直見たいのは本編であって、
次号のヤングガンガンに「社会翻弄編」とかで出てきたらそれでも歓喜しますよ、たぶん。
あとがき(という名の雑念)
いずれにしても、最終話(というか最終巻のあとがきまで)見ないとなんとも言えない状況ですが、
個人的にリアルタイムで追いかけていた、
と次々に終わっていき、「合コンに行ったら女がいなかった話」が
あの展開になってしまい(これ急いで書きたいこと書かないと不味いな…)
恐々としている毎日を過ごしています。
はこの前見たらデート中だったのでとりあえず安心した。
デート前の流れは割とロケハンする勢としては好感持てる派。
だけど、かのかりは正直もう畳んでもいいと思っているのだけど…